【沖縄「戦争マラリア」】

インフォメーション
| 題名 | 沖縄「戦争マラリア」 |
| 著者 | 大矢英代 |
| 出版社 | あけび書房 |
| 出版日 | 2020年2月 |
| 価格 | 1,760円(税込) |
―強制疎開死3600人の真相に迫る
日本で唯一の地上戦が起きた沖縄。しかし戦闘のなかった八重山諸島で3600人もの住民が死んだ。なぜ? 映画『沖縄スパイ戦史』の共同監督が沖縄戦の最暗部に迫ったルポ。
ジャーナリストとしての誠実さ、気概が伝わる一冊、そして、ジャーナリズムの社会的責務を考え合う一冊でもある。
推薦:金平茂紀、望月衣塑子、ジャン・ユンカーマン。
「調べてみると、それは、波照間の住民たちがマラリアの蔓延するジャングル地帯へと移住させられたことが原因だった。しかも、日本軍の命令によって、強制的に。
軍命による強制移住、それが引き起こしたマラリアによる病死。これが沖縄で「もうひとつの沖縄戦」と呼ばれてきた「戦争マラリア」だ」(本書「まえがき」より)
引用:あけび書房
ポイント
- 1945年、波照間島の住民ら約500人がマラリア熱で命を落としたという。波照間島は西表島から海を挟んで約20キロ南にあるのだが、別の島の住民たちが、なぜ危険な西表島へと向かったのだろうか。
- 一緒に過ごしてきた日々のなかで、言葉ではなく、孝子さんの中にある「語れない記憶」を心で感じてきた。だからこそ、孝子さんに言われた「あんたには分からない」という言葉は、著者の胸に深く突き刺さったのだ。
- 波照間から一番近くて日本軍が駐屯している島、それが西表島である。住民の命を守ることよりも、住民が米軍の手に渡ることを恐れ、軍隊の監視下に置くという日本軍の計画だった。
サマリー
地上戦なき島々の沖縄戦・戦争マラリアとの出会い
「戦争って残酷ーー忘勿石之碑で慰霊祭」
これは、2009年8月15日、終戦記念日の朝刊一面に掲げられた見出しである。
著者は当時、八重山毎日新聞社でインターンをしていた。
「忘勿石之碑(わすれないしのひ)」は西表島東部の南風見田海岸にあり、現在は観光客に人気の場所だが、かつては恐ろしい熱病・マラリアの有病地だった。
1945年、波照間島の住民ら約500人がマラリア熱で命を落としたという。
波照間島は西表島から海を挟んで約20キロ南にあるのだが、別の島の住民たちが、なぜ危険な西表島へと向かったのだろうか。
そして記事には、「日本軍の軍命による強制疎開」とも書かれていた。
なぜ軍がわざわざ危険なマラリア有病地へと住民を移住させたのか気になって調べてみると、次のことがわかった。
● 八重山諸島では米軍上陸も地上戦もなかった。
● マラリア有病地への移住は、八重山諸島各地で起きていた。
● 八重山諸島全域で3600人以上の犠牲者。
「沖縄戦」と聞けば、日米両軍による激しい地上戦をイメージするが、この「戦争マラリア」は、これまでとまったく異なる側面を突きつけた。
著者は修士論文のテーマを迷わず「戦争マラリア」とし、証言を残すため島に渡った。
島で暮らしながら撮る
八重山諸島の南の果てにある波照間島は、戦争マラリアでもっとも被害を受けた島である。
島の人たちに戦争体験を聞くのなら、生活の営みを体験し、きちんと人間関係をつくりながら取材がしたい。
著者を受け入れてくれたのは、サトウキビ農家の浦仲孝子さん(79)だった。
畑仕事を手伝いながら8か月ともに暮らしたが、孝子さんは戦争マラリアについて口を開くことはなかった。
著者が孝子さんの家族の死について知ったのは、偶然見つけたある新聞記事がきっかけだった。
それは、マラリアの犠牲になった家族9人のうち、最後に亡くなった父親のことである。
病床の父は、「自分が死んだら、これを持って親戚を訪ねて埋葬を頼みなさい」と、幼い娘に十円札を握らせ息を引き取った。
それが、父として残していく2人の娘たちへの最後の愛情だったのだろう。
しかし、どこの家に頼んでも遺体の埋葬に追われて動ける状態ではなかった。
少女は十円札を握りしめて、泣きながら来た道を帰っていった。
記事を読んだ数週間後のこと、著者はビデオカメラを回し、思い切って孝子さんに聞いてみた。
「人生で一番苦労したことを教えて」
孝子さんは縁側に座って、収穫したモチキビを袋詰めにしていた。
「マラリアの時さ。あんたには分からないよ」
一緒に過ごしてきた日々のなかで、言葉ではなく、孝子さんの中にある「語れない記憶」を心で感じてきた。
だからこそ、孝子さんに言われた「あんたには分からない」という言葉は、著者の胸に深く突き刺さったのだ。
